昭和33年の野幌の様子(「野幌窯業史」・野幌窯業振興協会より)
ちょっと歴史な話・焼き物と石炭
煉瓦は「窯」で焼かれていますが、その燃料には「石炭」が使われていました。そのため、石炭の街・夕張から野幌駅まで「夕張鉄道」線が走っていて、多くの石炭が、野幌に運ばれていました。 また、人の行き来もありました。このページの左上は、「江別駅前通り」の写真です。江別は商業の街、野幌は業業の街。夕張から多くの人が、江別に買い物に来ていたのですね。なぜ、江別市に「夕鉄バス」(夕張鉄道バス)が走っているのだろう?実は、こんな歴史的背景があるのです。 時代の変化とともに、窯の燃料も「石炭」から、「石油」へと替わりました。夕張の炭鉱の閉鎖と共に、夕張鉄道線も廃線となりました。現在の窯の燃料は、「重油」や「ガス」が使われています。 |
レンガを多く必要とした鉄道工事(蒸気機関車の車庫、倉庫、駅の建物や陸橋)の終了とともに、煉瓦の需要が減り、同様に「土管」と呼ばれる排水用、煙突用、農業用の筒型のセラミック製品も、コンクリート・ヒューム管や塩ビ管などの新建築資材の登場により、その需要が落ち込んでいきました。そして、多くの工場はその姿を消していきました。
野幌は札幌まで電車で30分(快速で15分程度)の距離にあるため、通勤通学圏内としてベットタウン化が始まりました。野幌に徐々に大型店舗やアパートが並び始める住宅地化とともに、 れんが工場は、一つずつ、その姿を消していきました。
現在のサティーやイトーヨーカ堂など、スーパーや大型店舗、高層マンションが建っているところは、昔の煉瓦工場の跡地なのです。
江別や野幌には、こんな歴史があります。新しく江別へ移住し市民となった皆さん、知っていましたか?
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(株)吉田農業土管製作所 現在のイト-ヨーカ堂の場所にあった。 農業用土管を製造していた。 |
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昭和窯業(株)
現在、サティーが建っている。 国道沿いに事務所(写真右)と その後方に工場(写真左)が建っていた。 |
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野幌煉瓦陶管(株) 現在、ジョイ(セリオ)が建っている。 |
肥田製陶(株) 上記全てが姿を消している中、 今回保存活用しようとしている物件。 |
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エピソード PartU 「煉化もち」「煉化もち 買うや原始の森の駅」
俳句仲間で ある久保兵太郎が佐野花山を引き止め、手抜き煉瓦の製法から思い付き、
「煉瓦餅」を作 った。 「煉瓦の瓦は食べられぬが、”化”けたら食べられるのではないか。」とネーミングされた。 以降、煉化もちは、石川啄木の紀行文「雪中行」など、多くの小説にも出てくる。 |