野幌の窯業の跡地

江別のれんが製造は、1891年(明治23年)に、現在の江別市東光町にできた 江別太煉瓦石工場が始まりとされています。

その後、地質的に、原料である粘度層が野幌に多いことから、 窯業の中心は野幌に移り、
1895年(明治28年)に白石村から移設された館脇煉瓦工場、 1898年(明治31年)に北海道炭礦鉄道竃幌煉瓦工場を皮切りに、煉瓦工場が増え、 1958年(昭和33年)には、15社ものれんが工場が立ち並んでいました。

野幌で造られたレンガは、札幌にある北海道庁舎(修繕部分)や、 札幌ビールファクトリー五番館、苫小牧の王子製紙工場、 小樽の煉瓦建造物などに使われました。








昭和33年の野幌の様子(「野幌窯業史」・野幌窯業振興協会より)


ちょっと歴史な話・焼き物と石炭

上の地図を見てください。何か気が付きませんか? 中央にあるのが野幌駅です。高砂駅は無く、 野幌駅から肥田製陶の後方を、「夕張鉄道線」が走っています。

煉瓦は「窯」で焼かれていますが、その燃料には「石炭」が使われていました。そのため、石炭の街・夕張から野幌駅まで「夕張鉄道」線が走っていて、多くの石炭が、野幌に運ばれていました。

また、人の行き来もありました。このページの左上は、「江別駅前通り」の写真です。江別は商業の街、野幌は業業の街。夕張から多くの人が、江別に買い物に来ていたのですね。なぜ、江別市に「夕鉄バス」(夕張鉄道バス)が走っているのだろう?実は、こんな歴史的背景があるのです。

時代の変化とともに、窯の燃料も「石炭」から、「石油」へと替わりました。夕張の炭鉱の閉鎖と共に、夕張鉄道線も廃線となりました。現在の窯の燃料は、「重油」や「ガス」が使われています。

レンガを多く必要とした鉄道工事(蒸気機関車の車庫、倉庫、駅の建物や陸橋)の終了とともに、煉瓦の需要が減り、同様に「土管」と呼ばれる排水用、煙突用、農業用の筒型のセラミック製品も、コンクリート・ヒューム管や塩ビ管などの新建築資材の登場により、その需要が落ち込んでいきました。そして、多くの工場はその姿を消していきました。

野幌は札幌まで電車で30分(快速で15分程度)の距離にあるため、通勤通学圏内としてベットタウン化が始まりました。野幌に徐々に大型店舗やアパートが並び始める住宅地化とともに、 れんが工場は、一つずつ、その姿を消していきました。

現在のサティーやイトーヨーカ堂など、スーパーや大型店舗、高層マンションが建っているところは、昔の煉瓦工場の跡地なのです。

江別や野幌には、こんな歴史があります。新しく江別へ移住し市民となった皆さん、知っていましたか?

 

(株)吉田農業土管製作所
現在のイト-ヨーカ堂の場所にあった。
農業用土管を製造していた。
 
昭和窯業(株)
現在、サティーが建っている。
国道沿いに事務所(写真右)と
その後方に工場(写真左)が建っていた。
野幌煉瓦陶管(株)
現在、ジョイ(セリオ)が建っている。
  肥田製陶(株)
上記全てが姿を消している中、
今回保存活用しようとしている物件。

 

エピソード PartU 「煉化もち」

「煉化もち 買うや原始の森の駅」


明治31年、煉瓦工場で働く人を相手に佐野利吉という人が雑貨商を始めたが失敗し、自分の国に帰ろうとしていた。
佐野利吉は俳人でもあり、「花山」の名も持つ。

俳句仲間で ある久保兵太郎が佐野花山を引き止め、手抜き煉瓦の製法から思い付き、 「煉瓦餅」を作 った。
久保兵太郎は炭砿鉄道会社とかけあい、野幌駅売りの許可を得、明治34年に発売 された。

「煉瓦の瓦は食べられぬが、”化”けたら食べられるのではないか。」とネーミングされた。

以降、煉化もちは、石川啄木の紀行文「雪中行」など、多くの小説にも出てくる。